香港での抗議運動は、始まってから100日以上経ち、まだ収まる気配はない。 これが続く理由とは市民が抗議する動機があるからだろうが、抗議運動を「続けられる」だけのキャパシティーを都市が持っていることに私は建築学生として興味がある。
抗議運動は、様々な形で都市に分散している。 例えば8月3日から5日にかけての3日間で抗議集会が起こった場所を見てみると、非常に多くの場所で抗議運動が起こっていることと、場所が変わっていることがわかる。 あるいは、8月23日に行われた「人間の鎖」では、人々が路上で手を繋ぎ合って作った列が、線的な広がりをもって都市スケールに拡大していることがわかる。
また、常設的な空間の例としては、抗議運動の掲示板である「レノンの壁」が設置された場所を見てみても、香港全土に分散しているのがわかる。 レノンの壁は抗議者が書いたポストイットが貼られた壁のことで、インターネットを使わない老人がここで情報を見たり、壁の前で抗議のパフォーマンスが行れたりと、様々なアクティビティが発生しており、 抗議の意義を確かめるうえで重要な場になっている。 このように抗議運動は、点としてあるいは線として、一時的にあるいは常設的に、様々な形で都市に分散している。
こうして抗議運動が都市に広がっているあいだに別の場所では日常生活が営まれているという、少し奇妙な事実を理解する必要がある。 多くの市民は、SNSで共有される抗議集会のスケジュールをもとに、抗議が行われる場所と時間を大まかに理解した上で、彼らの生活の予定を組んでいるのだ。 SNSを使わない市民も街に貼られたポスターにもスケジュールが分かるし、 英語や広東語が分からない外国人でも、多くの領事館が日程を翻訳し注意喚起の形で公開している。
.こうして共有される日程のほかに、報道各社によるライブ中継や、 リアルタイムに更新される地図もある。 これらのライブ中継は、(国際的なニュースで取り上げられることの多い警察と市民が衝突する光景だけでなく)、警察やデモ隊の移動や経過も伝えているので、市民はどの地区で何が起こっているか/起こりそうか把握できる。
ここで、抗議運動に並行した日常生活というのは、都市機能が重複しているから可能になるということも確認したい。 ショッピングモールや公園といった場所が複数あることで、一つが機能しなくなったときにも別の選択肢が残る。 そしてこの冗長さは、都市機能が密集しているこの都市独特でのものだと思う。 逆の例として重複しない都市機能について考えれば、例えば国際空港が挙げられるが、ここでの抗議集会は長期化しなかった。 短期間で終わった理由としては空港内での取締が厳しくなったこともあるが、香港市民や国際的な支持を得られなかったことも背景として理解しておきたい。
先ほど抗議集会の場所が日ごとに変わることを確認したが、この仕組みに伴って、その場所に集まる意味、つまり文脈が発生する。 空間の意味付けについて考えると、都市の要素が目印や象徴として理解されることで、活動の場所は分散する。 歩行者数が多く且つ雨がかからない壁がレノンの壁となること、ライオンロックという丘が民主化運動の象徴のようになること、 地下鉄の路線図が「人間の鎖」の列に変わること、など私が知る限りでも場所の意味が読み替えが多く行われている。 そしてこのような読み替えを生じさせるのは、市民の知性と、都市の要素が多様であることだろう思う。 私が香港で遭遇した野外上映会も、空間の読み替えに長けていた。
歴史の文脈からも少し補足するとすれば、この野外上映会はウクライナの抗議運動のドキュメンタリー映画から学ぶということであることや、 先述の「人間の鎖」もリトアニアでの運動を記念したものであるなど、香港での抗議運動は世界の市民運動の歴史を意識していると言えるだろう。 香港大学建築学部で行われた公開レクチャーでSampson Wongは、Slavoj Zizek. Versoによる 「The Year of Dreaming Dangerously」を引用しながら、2010年代を世界各地で市民運動がおきた十年間だったと位置づけ、香港での運動をその連続として説明した。 世界各国の運動の文脈を汲み取る姿勢は、高度にグローバル化した香港ならではなのではないかと思う。 また、今回の抗議運動の最中に起こった出来事に関しても、それを記念/記憶するために丁度一ヶ月後に集会を開いたりと、文脈を自己記述するような例もみられる。 このように、抗議運動は、空間的な意味づけと、時間軸上の意味づけの相互から、様々な文脈を生成・継承している。建築を学ぶ身として、昨日遭遇した野外上映会は忘れないだろうなと思う。坂道が劇場の客席に変わり、犬の散歩に来た人もふらっと立ち寄る。ビルの谷間の音響もあいまって、とつぜん室内に入ったような感覚だった。 pic.twitter.com/W04dhW9u8I
— Tomi (@T0m12345) August 30, 2019
最後に、香港で移民労働者が毎週末に行うピクニック(座り込み)と抗議運動の繋がりを考えつつ、香港の歩行空間の冗長性も紹介したい。
2019年9月の建築討論での論考「明日、すべての広場で」 において港千尋は、 「私見ではあるが、香港で興味深いのはフィリピンやベトナム、マレーシアなど東南アジアからの移民労働者が週末に、こうしたショッピングモールや公園や通りに集まり、ピクニックを繰り広げることが習慣になっていることである。 つまり群衆が路上に座り込むことが日常行動となっていることも、大型のオキュパイを発生させる環境ではないかと思うのである。それは都市の「力」と言ってよいだろう。」 と仮説をたてている。 同月に香港大学建築学部で行われた公開レクチャー「Be Water: Hong Kong Protests and Urbanism」においても同様の指摘がSampson Wongによってなされ、その際には「空間の活性化」という言葉で説明されたと記憶する。(ところで 、レクチャラーは移民労働者が抗議集会の傍で座り込みする写真も紹介していた。その写真はどこか示唆的で、都市に定着した儀礼的無関心の振る舞いもまたピクニックの習慣化や抗議運動の長期化に寄与しているのではないかと思ったので別の機会に書こうと思う。)
ではこうしたピクニックを可能にする空間性とは何だろうか? Adam Framptonらによる 「Cities Without Ground 」 では、香港の歩行空間が高度に発展していることを捉えたうえで、歩行者ネットワークの高度な冗長性のおかげでこうしたアクティビティが起こっているのではないかと考察している。 通路が一部通りにくくなっても他の通路を通れるという冗長性が、地上の広場や道路空間とは異なる公共空間を形作っていると言えるかもしれない。
以上、抗議運動の空間的展開を把握したうえで、 都市機能が重複していること、情報共有や文脈生成における余裕、冗長な通路空間における占有の習慣化などを確認した。 こうした都市の冗長さが、抗議運動を持続可能なものにしているのではないかと考える。
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